「思うに、いまなおこの地球上のどこかには、想像を絶した巨大な力と形を持つ太古の生き残りが潜伏しているはずである・・・・・・測り知れぬ悠遠の昔に、大自然の霊的な力が凝り固まって、何らかの形状をそなえるにいたった。その後それが、潮のように押し寄せる人類の進出に遭って、姿を隠してからすでに久しく・・・・・・わずかに詩と伝説のみが、かすかな記憶のうちにその姿を捉えて、神、怪物、その他もろもろの神話中のものの名で呼び・・・・・・」
(アルジャーノン・ブラックウッド@H・P・ラヴクラフト著「クトゥルフの呼び声」より)
2023年2月28日、住み慣れた街を離れ、今まで生きて来て(東京23区内だが)一度も訪れたことのない未到の地・N地区へと引っ越した。家財道具等は前もって引っ越し業者を使って運んだり、Amazonで新しく買ったりして新居にそろえていたが、生まれて初めて本当に本当のひとり暮らしを始めるにあたって、やはり足りないものが次々と出て来て3月の前半は買い出し(主にAmazonと100円ショップ)と部屋作りで終わってしまった。
2020年12月16日に母親が、2021年10月6日に父親が他界(直接の死因はコロナとは無関係だったが)し、2021年内に父親と一緒に過ごした会社を廃業、父親の準確定申告に私の確定申告、それと少しばかり遺産もあったので弟妹と分配するために何度か会って遺言書を作らなかったこともあり、ずっと親と暮らしていて親の介護も私がひとりでしていたが「遺産の配分で揉めた」のでかなり私に不利で損をすることになる分配率になったが、父親の経営していた会社が父親が死んだ(急な出来事だった)瞬間に関係者各位が手のひら返しをして来て、これが最後の取り引きになるからとぼったくって来たり、弁護士と税理士以外の関係者全員に裏切られたショックも大きかった(予想はしていたが実際に本当に裏切られるのはやはりショックだった)上に弟妹まで裏切るのかとうんざりしていたこともあり、早く「敗戦処理」をしたかったので私が一番分配率が低い条件で遺産相続会議を終結させた。その後、何回か妹と会ったりLINEのやり取りなどをしていたがそれも今では無くなり、弟とは両親が生きていた時から仲が悪く、両親が2人とも死んだら縁を切ろうと思っていたのでこれを機に疎遠になった。
私の確定申告は税理士に丸投げをしていて(その節はありがとうございました)、その税理士が言うことには私は3月1日にこのN地区に引っ越したことになっていて確定申告も3月1日付けでN地区がある行政区に納めたことになっていた。流石に住民票の移動を4月にすることになるのは不味かろうと思い、3月の下旬にまだ新居の部屋作りは終わっていなかったが、行動を開始することにした。
住民票の移動と印鑑証明の再登録、国民健康保険の移籍、自動車運転免許証(ペーパードライバーだが身分証として大活躍している。もしも私がこれを持っていなかったら両親の死に関する全ての手続きが頓挫していたことだろう)の住所変更(裏書き)を1日で終わらせるため、その日は私にしては早起きをして昼食を取る暇も惜しいので瞬間チャージが出来るゼリー飲料を2つショルダーバッグに入れ、一応念のため捨て印用の印鑑も用意して、先ずは今まで住んで居た我が家があった街の区役所へ向かった。
我が家があった街の区役所は平日の午前中ということもあり比較的スムーズに手続きが進んだ。3月4月は転入居者が特に多いシーズンとのことだったがそういう時期にしては待ち時間が短かった方ですよと窓口のベテランと思われる職員にそう言われた。私は引っ越し自体は何度かして来たが行政区を跨ぐ本格的な引っ越しはしたことがなかったのでどんなことをするのかと思っていたら黄色い封筒に引っ越し用の住民票を入れられてこれを現在住んで居る街の行政区にある区役所の窓口に提出するだけで手続きは終了なのだという。思っていたよりも簡素だったので少々拍子抜けしたがそれでも時計の針は正午を回っていたのでこれから印鑑証明登録の解除手続きをしなくてはならないのかと時間を気にしていたところ、その区役所の窓口の職員が、住民票を他区に移動する手続きをした時点で印鑑証明登録は無効になるのでいちいち登録解除の手続きをする必要はありませんよと教えてくれたので予定よりも早く新居がある行政区の区役所へ移動することが出来た。さらば、我が半生を過ごした街よ。禍福はあざなえる縄の如し。「夢の終わり」とともにこの街を離れることになったのも何かのお導きなのだろう。
現在住んで居る街の区役所の分室が新居から歩いて5分くらいの所にあるので住むには住みやすい街だな等と思っているともう目的地に着いてしまった。
この区役所の分室があるT会館は、1992年に新築された5階建ての市民会館で、館内には約500人が収容出来るコンサートホールを備え、その他小規模な集会が出来る小ルームや和室、レストラン型の喫茶店や図書館、1階には(お目当ての)区役所の分室も常設されている文化センターとしても機能している建物だった。
外観は全体的に古代に作られた石造りの神殿を思わせる石垣のようなざらついてゴツゴツとした大きいサイズのオフホワイト色の石製タイルが貼られ、建物の正面入口は建物的には地下1階にあたる位置に配置されていて、そこへと続く動線は野外演芸場の客席のように扇形に広がった階段を歩道から下りて進んだ扇の要(かなめ)の位置にある入口付近はガラスカーテンウォールが屋上まで連なり、その真ん中の縦のラインにはガラス張りのエレベーターがガラスカーテンウォールの青い反射光の中を浮遊するアクアリウムの気泡のようにゆっくりと上下していて、その入口の両側にはギリシアのパルテノン神殿を彷彿とさせる白亜の太い円柱が1本ずつそびえ、それは例えるなら時代の風雪に耐え残った古代遺跡のような石造りの神殿が20世紀のモダニズム建築の代表と称される近代建築の三大巨匠のひとり、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエにリイシューされて現代風にリフォームされたかのようだった。
その壮麗な会館の正面入口を横目に歩道を進み、区役所の分室をご利用の方はこちらという案内板に従い、会館1階にあるごく普通のありふれた自動ドアを通って館内に入るとすぐ目の前に区役所の分室の窓口エリアが広がって居た。
窓口前に設置されている記入台で住所変更手続きのための書類に必要事項を記入して窓口に提出し、待ち合いスペースの長椅子(ゆるやかなカーブを描く弧の内側に座るような作りの繋がったソファタイプ)に座って窓口から自分の名前を呼ばれるのを待っていると、いつの間にか区役所スペースへの近道の私が通って来た自動ドア付近(館内)で父親と思われる中年男とその中年男の娘と思われる小学校低学年くらいの女児との2人組がじゃれ合っていて、その時にその女児が何度か大歓喜大爆笑しながら「くさい!(大声)」と叫ぶとその父親と思われる中年男が満足げな様子で「よし!、いいぞ!(笑)。じゃ、行こうか(笑)」と言ってその自動ドアから笑いながら建物の外へと去って行った。「?」と思っていると今度はまた、いつの間にか私の近くに居た中年女が急に嘲りはしゃぎ始め「くさい!」と叫んでそしてまた先ほどの親娘2人組と同じく近くにある自動ドアから建物の外へと出て行った。2度あることは3度あるというが、またしばらくすると今度は館内(区役所スペースの私が座っている長椅子から見て右側のこのスペースの外側の奥の方)から東南アジア系の外国語なまりの日本語で中年女が笑いながら「くさい(笑)くさい(笑)くさい(笑)」と無機質にさえずるとまた館内の奥へと戻って行った。物語を作る上でいくつかルールがあり、その中のひとつに、ある出来事が起きた時に「1度目なら偶然。2度目なら物語の進行上やむなく。しかし3回続いたらそれは必然なので何らかの理由を説明する必要性が出て来る」というものがある。理由を説明出来ない物語は「ご都合主義」だと批判され、ちゃんと説明したとしても読者が納得出来る内容でなければその作品は罵詈雑言を浴びせられ著作者に対しても激しい人格攻撃がおこなわれ、昨今ではそれを苦に筆を折り、創作の世界から旅立ってしまう者も少なからず存在する。ネット社会が著作者と読者とを簡単に繋げられるようになった結果、声の大きい一部の批判者の言うことに注目が集まり、声の小さい大多数の好意的なサイレント・マジョリティが見て見ぬふりをしているうちにいつの間にか業界を去って行く著作者たちの無念はやがて集合的無意識の奥底にマグマのように溜まり続け、とんでもない怪物を生み出してしまうのではないかと妄想を膨らませていたところ、そう言えば、今日の午前中に行って来た我が半生を過ごした故郷たる行政区の区役所に居た時も「くさい」と叫んでいた者たちが居たなと思い出した。
我が故郷の行政区にある区役所の中では幅広い年齢の老若男女が複数人(国籍も中国系や東南アジア、白人等様々だった)が繰り返し「くさい!」と叫び、歌うようだったり力強く叫んだり無機質だったりと様々な感情表現で叫んで居た。そう言えば、そもそも今住んでいる新居から故郷の区役所へ行くまでの道中や地下鉄での移動中や故郷の区役所からここN地区のT会館へたどり着くまでの間でも「くさい」と叫んでいる老若男女が複数人居た。もっと思い出せば、故郷にあった我が家(すでに売却済みで2023年の夏に家屋は解体され更地となり、2024年4月からは新築の5階建てのアパートが建設されることがすでに決まっている)に住んで居た時も近所の住人たちが我が家の近隣で「くさい!」と叫び、我が家に隣接していた歩道は通学路にもなっていたので登下校をする小中学生たちが毎日、我が家前で「くさい!」と叫んでいたっけなあとその声、そのイントネーションに懐かしさを感じ始めると同時に、待てよ?。こんな距離にして約18km離れた街でもまるで隣接している街であるかのように「くさい!」と叫ぶ老若男女がこんなにも複数人住んで居るなどということがあり得るものなのだろうか?。少し興味が湧いて来たので住民票の移籍手続きが完了するまでの間、私なりに少し考察してみようと思う。
先ずは「くさい」という言葉だ。「くさい」の他にも「くさっ」「クスッ」「クシュー」「くせい」「くさくさくさくさ(早口)」「クスクスクスクス(早口)」などいくつかのバリエーションがあることを確認しているが、おおむね「クサイ」と「クスッ」という言葉を叫ぶ人が多いように思われる。
手持ちのスマホでGoogle翻訳をしようと色々なアルファベットの組み合わせを試してみたところ、「cu sai」(発音は「ク サイ」)という表記でルーマニア語に翻訳することが出来、「彼と一緒に」という意味になることが判った。なんだか宗教染みた訳語になったことに対して少々驚きを隠せないでいるが、今度はWikipediaでルーマニアという国について調べてみた。
ルーマニアは東ヨーロッパのバルカン半島東部(東南ヨーロッパ)に位置する人口1923万8千人(2020年調べ)の共和制国家で、首都はブカレスト(国内最大の都市)。「国土の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原にトランシルヴァニア、ブルガリアに接する位置にワラキア、モルドバに接する位置にモルダヴィア、黒海に面するドブロジャという4つの地方に大きく分かれていて、国境は、南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリア、東は黒海に面している」という遠く遙か紀元前の昔から戦乱の渦に巻き込まれていた平和な時期の方が珍しいと言っても過言ではない過酷な国際情勢に翻弄され続けて来た地域にある国だという。
2007年1月1日にEU(欧州連合)に加盟する前はソ連の圧力に屈し社会主義政権が樹立。一時期は社会主義国として国家が運営されていたこともあったようだ。第1次第2次両世界大戦に翻弄され、今も隣国ウクライナがロシアと戦争中でウクライナから毎日やって来る何万人もの難民の対応に追われている。1878年にルーマニア王国として独立した。国際社会に独立国家として承認される前は、オスマン帝国、ハンガリー王国、欧州の色々な国に王位継承者を輩出したハプスブルク家といった強大な権力の下で「属国」として暮らし、更にその前となると数百年に渡って様々な遊牧民に入れ替わり立ち替わり支配され、そのまた更に遡ると、のちの世に「パックス・ロマーナ(ローマによる平和)」と呼ばれることになるローマ帝国が最も安定していて強く広大だった時代の皇帝トラヤヌス(五賢帝の2番目。在位:紀元後98年〜紀元後117年)に敗れ、長くローマ帝国の属州(ダキア)になっていた。このローマ帝国の属州だった頃にルーマニア(ラテン語で「ローマ人の土地(国)」という意味)というアイデンティティがかたち作られたと見受けられる。実際、この属州となったダキアではダキア人の男性は10万人規模で捕虜となり、奴隷としてダキアの外に連れていかれ、代わりにローマ人が大量に入植して「ダキアのローマ化」が進んだとWikipediaは言う。
ローマ帝国の属州になる前はゲタイ人と呼ばれるトラキア系の民族が住んで居たと古代ギリシア・ローマの歴史家が紀元前6世紀頃にはその存在を記録していたそうで、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世(在位:紀元前522年〜紀元前486年)やマケドニアのアレクサンドロス大王(在位:紀元前336年〜紀元前323年)等と戦い、敗れはしたもののその存在を広くヨーロッパ世界に知らしめていた。
このゲタイ人がルーマニア人のルーツなのではないかとも考えられるのだが、このルーマニアがある東南ヨーロッパは上記のように戦火に翻弄されて来た「激戦地」であったため、ルーマニアが「単独」で「独立」していた時期の方が歴史的には少なく、いわく「紀元前からこの地方に住んで居たトラキア系のダキア人、2世紀頃にこの地方を征服した古代ローマ人、7世紀から8世紀頃に侵入したスラブ人、9世紀から10世紀頃に侵入したマジャール人、その他にトルコ人、ゲルマン人等との混血や同化によって重層的かつ複合的に形成」された「多種多様な民族によって形成」されている「複合民族(ロムニ)」なのである」とWikipediaでは説明されている。
現行の国家であるところのルーマニアは「1859年にモルダヴィア公国とワラキアのドナウ公国との個人的な連合によって形成」されたモルダヴィア=ワラキア連合公国が1861年に国称をルーマニア(ロマニア)公国と名乗り、1877年の露土戦争をロシア帝国側で戦い、1878年のベルリン条約により晴れてオスマン(トルコ)帝国から完全に独立。それから、1881年にカロルが国王になったことで王制へと移行し、念願のルーマニア王国が誕生。以後、歴史の荒波を「ルーマニア人の国」として生きて行くことになる。
さて、前置きが長くなってしまったが、このゲタイ人に私は注目してみた。
ヘロドトス(古代ギリシアの歴史家。紀元前484年頃〜紀元前425年頃)はその著書「歴史」(巻4-94)で「彼らは自分たちが死滅するとは考えず、死亡した者は神霊サルモクシスのもとへいくと信じている。彼らの中には同じ神をゲベレイジスの名で呼ぶ者もある」と記している。本邦(昭和)戦時下の英霊たちが「一緒に靖国に帰ろう」と励まし合いながら散華して行った姿と重なるものを感じる。
また、ストラボン(古代ローマ時代のギリシア系地理学者、歴史家、哲学者。紀元前64/63年〜紀元後24年頃)が著した「地理誌」(巻7-3章-2節-5)によれば「伝承によると、ゲタイ族出身でその名をザモルクシスという人は、ピタゴラス(古代ギリシアの数学者、哲学者。紀元前582年〜紀元前496年)の奴僕であったが、主人(ピタゴラスのこと)から天文についての学問をいくらか学び、同時にエジプトにまで遍歴の足を伸ばして、かの地の人々からも様々な知識を学んだ。その後、故郷の地へ帰ると、(天体が示す)何かの現象を予兆として予言し、指導者たちや部族のみんなの尊敬を受けた。そして、ついには王のところに向かい、自分は神々が知らせる事柄を人々に伝えるにたる人間だからという理由で、自分を王の統治に参加させるよう説いた。
はじめ、部族の人々の間で、とりわけ大事に祀っている神の祭司に任せられたが、後になると、(ザモルクシス当人が)「神」の称号を受け、洞窟のようになって他の人々には足を踏み入れることを許されない場所に居を構え、そこで日を送った。その間、王と自分の世話をする人々以外、外界の人々とはめったに会うことがなかったし、人々は王が神々の助言に従って布告を出しているからというので、以前にもはるかにまして当の王の言葉に気をつけるから、王もそれを見て祭司に協力していた。
当のこの習慣は当代(著者ストラボンが生きていた紀元前64/63〜紀元後24頃)にまで続いて、王の顧問として仕えているのに族民の間では「神」という呼び名を持つ役割の人物が終始存在しているのが見られる」のだという。
本邦でも古事記日本書紀が編纂される以前は神社に「神」がおわしまして、万民と共に生活をし、姿を見せることもなく、一部の側用人がお世話をしていましたが、それでは一体、この「神」とは何者だったのだろうか?
かつてルーマニア地方がローマの属州になった時、その属州内で古来から信仰されていた信仰があったとWikipediaは言う。それを「バックス(Bacchus)信仰」と言う。本邦では英語読みの「バッカス」の方が有名であると思われる。本邦では1980年代頃から家庭用ゲーム機が普及し、そのいくつかのゲームで主にファンタジー世界のお酒としてこの名を目にした諸兄も多いのではないかと思う。
その「バックス信仰」は、その当時のローマ帝国がルーマニア地方(当時はダキア地方と呼ばれていた)であまりにも流行っていて弾圧しても効果が無かったことから、このバックスはギリシア神話に出て来る神のひとり、ディオニュソスの異名バッコスをラテン語読みにするとバックスになることから、ダキア地方で古くから信仰されて来たバックス信仰はこれすなわちディオニュソスという神への信仰と同じであると説き、ダキア地方に古くから伝わる民間信仰をギリシア神話すなわちローマの神と同化させたのだとWikipediaは伝える。
本邦でも、祭り事(政/まつりごと)には酒が付き物で何かに付けてあらゆる場面で酒を飲む風習がある。この「バックス信仰」も酩酊するほど酒を飲み、集団的狂乱と陶酔を求め、(驚くことに)熱狂的な女信者を大量に獲得していた。
どこか日本神話と重なるところがあるように見えてしまうのは私だけだろうか?
ダキア地方(古代ルーマニア地方)の戦乱から難を逃れるために遠路はるばるシルクロードを渡って我らが極東の日出る国まで彼等の一部がやって来て本邦に定住したとは考えられないだろうか。
事例は、ある。本邦の青森県三戸郡の新郷(しんごう)村にかつて戸来(へらい)と呼ばれた地区があり、この戸来は「ヘブライ」に由来する名前で、ここには「キリストの墓」と伝えられる塚があるという。また、本邦の徳島県にある剣山(つるぎさん)には「ソロモンの秘宝」(ソロモン王の在位は紀元前971年〜紀元前931年)が隠されているという伝説がある。古代イスラエル王国の神殿が破壊され、今でもその行方が知られていないこの秘宝(十戒の刻まれた石板、マナの壺、アロンの杖が納められた契約の聖櫃(アーク)のこと)は「東方」へ逃れた「イスラエルの失われた10支族」と共に本邦へ渡って来たという仮説は、本邦の大和王権設立に大きく貢献した物部氏や倭漢氏、秦氏などが「イスラエルの失われた10支族」なのではないかという研究もあるくらいなのでそれほど荒唐無稽な推論ではないのではなかろうか。
他にも、武士として初めて太政大臣に任命された平清盛はペルシア人だったという研究や鬼はロシア人だった(民間伝承の萌芽時代の本邦人とロシア人との身長差は長大で当時の本邦人の成人男性の身長が120cmくらいなのに対してロシア人は180cm以上あったので正に鬼のような巨漢に見えたのだろう。そして、ロシア人は肌が白いので酔うと身体中が真っ赤になるので「赤」鬼。平常時は肌が白いので静脈が青く浮き出ていてそれが印象的で青さが強調された姿が「青」鬼。鬼はいつも酒盛りをしていてよく本邦人を襲う。本邦人に稀に白い肌の人が生まれるのはロシア人の血が混じっているから隔世大遺伝で白い肌の子供が生まれるのだという。白い肌の子供は本邦の東北地方で良く生まれ、新潟県や秋田県などが白い肌の「美人」の産地と言われるのはお米が美味しいからでもなければ水がきれいだからでもなく、グローバルな遺伝子研究によると他の本邦の地域よりもロシア人の遺伝子の比率が高いからというエビデンスも存在する)という研究もあり、調べればもっとユーラシア大陸からシルクロードを渡って古今東西多種多様な民族が本邦に何千年もの昔からやって来ていて定住もしていた証拠はいくらでも出て来るのだろうが、本邦は天皇家を王権として中央集権化した立憲君主制を敷く政権が2684年経った今も続いている「単一民族」の国だと主張しているため、なかなか、実は本邦はルーマニアのような複合民族であるということを証明するような研究に対して熱心に補助金を出さないし、天皇家の一族が何系の民族の血を色濃く残しているのかというグローバルな遺伝子研究にも協力しない「ルーツ研究」の後進国なので、第1級の1次資料は流石にネットの海(しかも本邦の言語内のみ)程度を軽くサーフィンしたくらいでは見付けられないのもむべなるかな。
そういえば、この今、私が居るT会館の正面入口が野外演芸場の客席のような階段状になっているのは古代ギリシアのアテナイにあったディオニュソス劇場(ステージを扇の要(かなめ)の位置に作り、それを観覧するように扇状に広がった客席がステージを段差を付けて囲む。その劇場では年に1回、ディオニュソスに演劇(悲劇)を捧げるコンテストが開かれていた)を模しているのかもしれない。そして、正面入口を階下から屋上まで連なるガラスカーテンウォールの真ん中を浮き沈みするガラス張りのエレベーターはアルコールの入ったグラスの中の泡もしくはガラス表面をしたたる水滴のオマージュなのかもしれない。そうすると、その正面入口の両側にそびえる白亜の巨大な円柱はギリシア・ローマを分かりやすく表していて、かつてダキア地方のバックス信仰をギリシア・ローマのディオニュソス信仰と同化させたように、本邦のバックス信仰的な何かを象徴しているとでも言うのだろうか。もしかすると私が見落としているだけで、例えばフリーメーソンで言うところの「プロビデンスの目」のようなシンボルがこの会館の何処かしらに掲示されているのかもしれない。
そんなことを考えていると窓口から名前を呼ばれ、無事、住民票の移籍が完了したことを告げられた。その時に、今日、住民票の移籍と同時に印鑑登録もしたいと申し出ると、窓口の職員から「住民票の移籍をした日と同時に印鑑登録をするのなら、自動車運転免許証の住所変更(警察署で行なう)前でも、旧住所の住民票が(現在ここに)あるので、それで免許証の住所を証明したことになるので今日、印鑑登録出来ますよ」ということだったので印鑑登録も今日してしまうことにした(始めから住民票の移籍と同時に印鑑登録もするつもりだったので印鑑登録用の印鑑(実印)もここに持って来ていた)。また、国民健康保険の移籍も上記と同じ理屈で同時にすんなりとすることが出来、この行政区の国民健康保険証(紙)も即日発行された。
このT会館の中にある区役所の分室では印鑑登録をする時は職員がその印鑑登録用の印鑑を預かってこの役所の職員が窓口の奥で印鑑登録申請書に押印するのだと言うので印鑑登録用の印鑑を手渡しし、また弧を描いたソファ型の長椅子に座って私の名前が呼ばれるのを待っていると、突然、窓口の奥から若女職員が「cu sai!(大歓喜大爆笑)」と叫んだかと思うと続けてその若女職員と一緒に居た若男職員が「サラ金から金借りてその借用書にこいつ(私のこと)の印鑑押せば幾らでも金借りられるじゃん(笑)。俺たちが印鑑登録証明書を発行するんだから、ここに印鑑登録する印鑑もあるんだから偽造じゃなくて本物の印鑑登録した印鑑を借用書に押印して本物の印鑑登録証明書も添えられるじゃん!(笑)(笑)(笑)」中年男職員「おいおい、本当にそんなことするなよ(笑)」若男職員「あー、サラ金から金借りておけば良かった!。だって、完全犯罪じゃないですか!。絶対にバレないですよ!。あー、これからは借用書を事前に用意しておいて印鑑登録に来たらその借用書に判子押そおうっと!(笑)(笑)(笑)」中年男職員「今、借用書を用意していなくてもその辺の紙に押印しておいて、あとからその紙に借用文を印刷すればいいだけだろ(笑)。ホントにやるなよ?(笑)」若男職員「あー、その手があったかあ!。紙紙紙。何処にあったかな、白紙の紙(笑)」若女職員「(超絶大歓喜大爆笑)」中年男職員「(爆笑)」と何やら不穏な会話が私の耳まで聞こえて来た。大丈夫なのだろうか?、この役所は。と不信感を募らせながらも、こういう時、どのようなリアクションを取れば良いのだろうかと考えていると窓口から自分の名前を呼ばれ、区役所のコンピュータに印鑑登録が完了したことと、どんな登録内容になっているのかを確認するための印鑑登録証明書を1通発行してもらい、住所や名前等に記述間違えがないかどうかの確認をすると、このT会館ではやることがなくなったので次は自動車運転免許証の住所変更(裏書き)をするために最寄りのT警察署へ行くことにした。
私がT会館の外へ向かって館内を歩き始めると、また先ほど叫んだ若女職員が大歓喜しながら私の背中に向かって「cu sai!!!(笑)(笑)(笑)」と叫ぶと残りの職員一堂がドッと歓声を上げて超絶嘲りはしゃいだ。
邪叫(やきょう)。
ふと、脳裏にそんな言葉が浮かんだ。「cu sai」という言葉自体はルーマニア語で「彼と一緒に」という意味になるが、そう叫んでいる人間たちは邪悪な思想の持ち主であるらしいことがこの区役所職員たちの言動でうかがい知ることが出来た。なんと邪悪な狂信者たちなのだろう!。私は彼等彼女等のことを仮に「cu sai秘密教団」の狂信者と呼ぶことにした。おぞましいその悪意に満ちた、いや、それが「悪いこと」であるとは思っていない「楽しい」から一般常識的には悪いと見做されていることを大歓喜しながら面白がる精神性に狂気を感じずにはいられなかった。彼等彼女等が心酔しているこの「cu sai」とはどのような神なのだろうか。
現在のルーマニア語はWikipediaによると「インド・ヨーロッパ語族イタリック語派ロマンス諸語」に分類され、古代ローマ人が入植して来た紀元後2世紀頃からラテン語(もともとはイタリア半島中部のラテティウム地方(ローマを中心とした地域で、現在のイタリア・ラツィオ州)においてラテン人が用いた言語であったが、古代ローマ・共和制ローマ・ローマ帝国で用いられた公用語となったことにより、ローマ帝国の広大な版図(ヨーロッパ大陸の西部や南部、アフリカ大陸北部及びアジアの一部)へ伝播した)が主流言語となり、以後、周辺国にスラヴ語民族が多く、その影響が極めて強かったため、その語彙の約20%がスラヴ語からの借用となっており、200語程度の基礎語彙に限れば90%以上がラテン語に由来する。と同時に、ドイツ語、ハンガリー語、ブルガリア語、ギリシア語、トルコ語の影響も受けているという。
ルーマニア語は長い歴史の中で様々な言語の影響を受けて来た訳だが、ローマ帝国の入植以前にこの地域に住んでいたダキア人や更にその昔に住んで居たゲタイ人はトラキア系民族に分類されていた。ゲタイ人が使用していた言語は不明な点が多く、インド・ヨーロッパ語族の中のサテム語派(アルバニア語、スラヴ語派、バルト語派、インド・イラン語派など)に分類されてはいるもののサテム語派は本当に共通系統なのかどうかは定かではない。トラキア人と同族とされる北方のダキア人の使用していたダキア語も同系の語派との考えが有力ではあるが、やや異なっていた可能性も示唆されている。つまり、何が言いたいのかというと、ゲタイ人が使用していた言葉は現代においては死語になっていて、その言葉の意味することを正確に伝える者は最早、現代には存在しないとWikipediaは言う。そのため、この「cu sai」という言葉も現代ルーマニア語においては「彼と一緒に」という意味にはなるものの、ゲタイ人が「cu sai」と言う時は違う意味の言葉、それこそゲタイ人が崇めていた神の名前もしくはその神をたたえる言葉だった可能性もじゅうぶんに考えられる。本邦に伝わる漢字がお隣の中国においての漢王朝時代(前漢・紀元前206年〜紀元後8年と後漢・紀元後25年〜紀元後220年)に使われていた漢字(漢王朝で使用されていた字だから「漢字」と言う)を現代でも公用語として使用しているのに対して、現在のルーマニア語では18世紀に行なわれた〝浄化″運動により、アルファベットをキリル文字からラテン文字に改めるとともに、ブルガリア語などのスラヴ諸語やハンガリー語、ギリシア語、トルコ語などの影響をラテン語、フランス語、イタリア語などからの借用により排除するという国家によるロマンス語化が進められ、今日に繋がるルーマニア語が造成された。とはいえ、スラヴ語の影響を完全に除去することは出来なかった。ということは、もしかすると、「cu sai」という言葉は冥狂のアラビア人アブドゥル・アルハザードが記したという禁断の書「死霊秘法(ネクロノミコン)」にも記載されている言葉なのかもしれない。ユダヤ人(物部氏など)やペルシア人(平清盛)同様、本邦にも遠路シルクロードを渡ってこの「cu sai秘密教団」が侵入して来て長年、定住しているのかもしれない。そうでなければ、旧我が家周辺住民や現在の新居周辺で「cu sai」と叫ぶ人間がこんなにもたくさん居る訳がないだろう。旧我が家周辺も現在私が住んでいる新居周辺もまだ都市開発の波に蹂躙されていない「下町」情緒あふれる古い社会なので、神代の時代から息吹く古古しき神を祭る集団が根付いて居ても何ら不思議なことはないだろう。因みに、「クスッ!」の方はというと、「バックス信仰」の「クス」の部分のことではないかと推測している。長いシルクロードの旅路の果てにたどり着いたこの国で、いつの間にか語頭の「バッ」が失われ、「クスッ!」だけが残った。そう考えるのが自然なのではないだろうか。「cu sai」「クスッ!」にも様々な言い方が存在していることも確認しているが、これも長い年月の末、語形変化を起こして現代にたくさんの派生語を生み出し言い伝えて来た結果なのだと思われる。
そんなことを考えながら歩いているうちにT警察署に到着した。T会館から徒歩にして約10分足らずの所にその警察署はあった。その道中の途中にあった消防署でも「オーライ」と言う代わりに「クサーイ!」と大声を出して消防訓練を行なっていたし、歩道ですれ違ったBBAや中年女たち複数人(それぞれ別々)も私とすれ違う瞬間に昏い声で憎しみを込めたり大歓喜したりと様々な感情表現で「cu sai」もしくは「クスッ!」等とさえずって憎悪の感情をむき出しにしたり嘲りはしゃいだりしていた。
さて、そんなこんなでT警察署であるが、その外観はよくある茶色い小口タイルが敷き詰められた何の意匠も感じられないごく普通の平凡な造りだったことに対して少々物足りなさを覚えたが、静かに、そして、ゆっくりと署内へと続く正面入口へ進むとかすかな鈍いモーター音がしてガラス張りの自動ドアが無機質に開いた。
署内では大声で怒りにまかせて早口で何事かをまくし立てている妙齢の中年女が4人の男性警官と対峙していた。私は自動ドアの近くに設置されて居た受付に座っていた中年の男性警察官に自動車運転免許証の住所変更をしに来た旨を伝えるとこのフロアの奥に免許証の住所変更専用窓口があると教えられ、大声を出して警察官と揉めている中年女を周辺視野で見ながら署の奥に常設されている自動車運転免許証の住所変更窓口へ向かい、窓口で免許証と一緒に先ほどT会館で住民票の移籍が完了したのと同時に発行してもらったこの街に住んでいることを表す新しい住民票を提示し、申請書に署名をして提出後、手続きが完了するまでの間、暇だったので、なるべく目を合わせないようにしてこの大騒ぎをしている中年女と警察官たちとのやり取りを観察することにした。
この中年女は、艶のある黒髪を後頭部で下ポニーテールにして肩甲骨くらいまで垂らし、ライトグレー色の鼻まで覆った洗える3Dフィットの布マスクで顔の下半分を隠し、目はまつ毛が長い鷹のような大粒で切れ上がった力強い凛々しさで、眉毛は太め濃いめでその目の上辺と並行になるようにきりりと吊り上がった流線形をしていた。服装は、上はゴマフアザラシの赤ちゃんの白い産毛のような起毛で覆われた薄手の長袖ニットを着ていて、その大きく開いた胸元には極細の金のネックレスが署内の蛍光灯の光に反射してキラキラと光っていた。下には真っ黄色のジーンズに白いスニーカーを履いていた。カバンらしき物を持っていないように見えたのでこの警察署の本当の近所に住んでいる人なのかもしれないと推察。あまりジロジロ見ていると私にもからんで来そうな激昂振りなので早く免許証の住所変更が終わらないかなと思っていると、この中年女の言動が何やら不穏なものに変化して行った。
「早くないか「くそう」り大臣に報告しなさいよ!。クスッ!。あたしは「くそ」忙しいんだからこんなこと面倒「くさい」から本当はしたくないのよ!。クスッ!。何週間掛かってるのよ!。データ・ハウジーの博多本店を強制捜査すればすぐクスッ!、証拠が見付かる「くさい」でしょ!・・・」
彼女の話しを要約すると、彼女の幼馴染み(2児の母親)が子供が2人とも小学校に入学したのでそろそろ仕事がしたいと在宅で出来るパソコン仕事を少しずつこなしていたところ、その取り引き先のひとつからとても良い条件で専属にならないかと声を掛けられ、しばらくその会社と仮契約をして動画編集やデータ入力などをしていたが、試用期間が終わりいよいよ本契約をする段階に来たら雇用条件は契約社員でしかも時給も大幅に引き下げられるという当初言っていたことと全く違うことを言い出したので揉めている最中に、一度、本店まで来て頂いて直接話し合いをしましょうということになり、不信感を募らせながらも当初提示されていた雇用契約がとても魅力的な内容であったこともあり、子育てと無理なく両立出来そうな条件の雇用形態はそうそう見付かるものではないことから、意を決して博多にある本店まで乗り込むことにした。という相談をこの今、T警察署の中で騒いでいる彼女がずっと受けていて、その幼馴染みが博多に行ってもう3週間帰宅していないのだと言う。だが、私にはそんなことよりもこの中年女が会話の中に「くそう」とか「くさい」「クスッ」等という言葉を混ぜながらしゃべっていることに驚きを隠せなかった。この中年女も「cu sai秘密教団」の狂信者なのだろうか?。「cu sai秘密教団」の信徒の幼馴染みならこの秘密教団が助けてくれたりはしないものなのだろうか?。やはり、このN地区にしか信者が居ない本当の地域密着型の秘密の宗教団体なのだろうか?。そんなことを考えていると私が座っている長椅子の後ろに位置する2階へ上がる階段があるために凹んでいて署内で大声を出しているこの中年女からは見えない死角となっている位置にいつでも飛び出せるようにと待機をしていた大柄な男性警察官が嘲り笑いながら「くさい」とさえずった。この言葉はこの中年女には聞こえなかったようで、この中年女は変わることなく大演説を繰り広げている。この邪叫(やきょう)をした警察官が「cu sai秘密教団」と何らかのかかわりがある人間なのか、ただ、この中年女が「くさい」とか「クスッ!」と言った言葉を混ぜながら会話をしているのが面白かったからなのかは不明だが、兎も角、この街では「犬も歩けば棒に当たる」ほどの高確率で「cu sai」とすれ違いざまにさえずったり日常的に会話の中にこれらの単語を混ぜて会話をする人間が少なからず存在しているということが判った。
まだこの中年女の大演説は続いて居たが、私の自動車運転免許証の住所変更(裏書き)手続きも終わったのでこのT警察署からすみやかに立ち去ろうと署の出入口へ向かって署内を歩いている時、この中年女の横を通り過ぎようとした瞬間、この中年女が今まで一方的にまくし立てて居た大演説の内容とは全く関係なく会話の途中に早口で「くさい」とさえずって、そして何事も無かったかのようにその大演説を続けた。妙だな?と思ったが無視して出入口の自動ドアの向こう(つまり建物の外)へ進み、警察署の建物の外を家路へと歩いていると、その警察署の出入口にある自動ドアが閉まり切らないうちにその署内から件(くだん)の中年女が大演説を中断して昏い声で憎しみを込めて「くさい!!!(憎)」と大声を出して憎悪の感情をむき出しにした。そして、自動ドアが閉まり切る前にまた大演説を再開して彼女を取り囲む警察官の人数も4人から6人に増えて居た。
T警察署の前を走るH通りの歩道を新居に向かって歩いていると、この暖かい春の陽気の中を全身黒づくめ(頭には黒いバケットハットを目深に被り、黒いレンズ部分が幅広で分厚いプラスチック製のサングラスを掛け、黒い無地のジャンパーに黒いパンツ。黒い靴下に黒い運動靴を履いていて、その運転している自転車もタイヤはおろかボディのフレームも真っ黒。銀色に光る車輪とスポーク以外の全てが黒一色だった)の自転車BBA(顔の下半分は鼻まで覆った白いガーゼのマスクで隠していた。身長150cmくらい。服装からは体型を推し量ることは出来ず不明。中肉中背といったところか)が立ち漕ぎで猛スピードで私とすれ違い、そのすれ違う瞬間に昏い声で憎しみを込めて「クスッ!(憎)」とさえずると更に加速して走り去って行った。
またしばらくH通りの歩道を歩いていると、何でもない雑居ビルの前で不自然に立ちんぼをしていたBBA(パタゴニアの白いニット帽にユニクロのライトスリムダウンハーフコートを羽織り、ピンク一色のリュックサックを背負い、真っ赤なレギンスに黒いレインブーツを履いていた。背は低く、腹が漫画家がカリカチュアライズしたかのように極端に出ていてその腹のせいでコートの前チャックは閉めることが出来ず全開だった。顔の下半分は鼻まで覆った白いガーゼのマスクで隠して居た)が私とすれ違ってから「くさい!(笑)」と大声(歯が何本か抜けているのか声がスカスカで発声が聞き取りづらかった)を出して下卑た笑い声を上げた。
そんな感じで新居に帰宅するまでの間に女(幅広い年齢)複数人(それぞれ別々)が、立ちんぼをしていたりすれ違いざまだったりと私が通過するタイミングで「くさい」「クスッ!」等とさえずって憎悪の感情をむき出しにしたり嘲り笑ったりした。ひょっとして、私はこの「cu sai秘密教団」(仮)にマークされてしまっているのだろうか?。こんなおぞましい古古しき神を神代の時代から信奉している狂信者たちと私の人生とは何の接点もないと思われるのだが、はてさて、どうしたものだろうか?
「くさい」「クスッ!」などと邪叫(やきょう)をする人間に女(幅広い年齢)が圧倒的に多いのもバックス信仰の信者と「cu sai秘密教団」(仮)の狂信者とが重なる部分があるからなのだろうか?。Wikipediaで調べるだけではやはり限界があるので、もう少し専門的な書籍を読み込んで更に考察を深めて行きたいと思う。
私も日蓮宗不受布施派(豊臣秀吉が天下人になった時にキリスト教ともうひとつ、わが始祖の興した宗派を弾圧したことは本邦の学校の認定教科書にも記載されている「試験によく出る」こととして有名)の始祖の子孫で、「古代に失われたと思われて居た宗派が現在でもその形を残している」という事例の当事者でもあることから、一概に「cu sai秘密教団」(仮)の存在を否定することは出来ない。
この街には「何か」がある。
私にはそう思えてならない。それが例え「パンドラの箱」を開けてしまうことになってしまうかのような行為であったとしても、やはり解き明かさずにはいられない、何か「使命感」のようなものを覚える。ネット(電網)の海から久方ぶりにビブリオ(書籍)の海へとダイヴする高揚感に今夜は眠れそうにない。かつて「本の虫」であった私の少年ハートは、そう、例えるなら、米国ロード・アイランド州プロヴィデンスにあるブラウン大学でセム語の講座を持って居た名誉教授であり、古代の碑文字研究の世界的権威でもあったジョージ・ガムメル・エインジェル老教授が指導的役割を演じたアメリカ考古学会のセント・ルイス大会に持ち込まれた、とある警部の率いる警官隊が奇妙な集会に突入した逮捕劇の際に押収されたという奇怪な宗教由来の小石像を見たこの大会に参席していた学者たちが強い興味を示し、そしてこの大会が終幕した後も引き続き学者たちの間で論議を巻き起こすこととなったクトゥルフ教(今の世に生き長らえている太古の秘教)の痕跡を追っている真っ最中だった頃の、故エインジェル老教授の遺品整理人フランシス・ウェイランド・サーストンが感じた興奮に似た感情で全身が熱くたぎっている。
以上が私がこの新居を借りて新しく住むことになった街で出会った人々に対する大まかな印象なのだが、私はこの手記を、私自身に対する正気のテストの意味で書き上げた。その結果、自分では関連させて考えたくない出来事も、敢えて結び付けて提示してあるのだが、それが狂気の証拠と言えるのかどうかは、私の判断の外にあると考えている。要するに私は、宇宙が恐怖を楯に守り抜こうとする秘密の片鱗に気付いてしまったのだ。これから先は、春の空も夏の花も、私への毒となってしまうのかもしれないが、私の生命は長い。宇宙の秘密の片鱗に気付いたからといって、あの忌まわしい信仰が今でも生き長らえているからといって、それが何だというのか。今、この地球上では、都市の上に頽廃の影が広がり、人類の危機が接近しつつある。そして、私の遺言執行者に、私の死後、俗人どもの目に触れぬようにこの手記を慎重に処理してしまうことを依頼するなどということはしない。私はこの手記を天下万民に広く知らしめ、本邦に奇怪な信仰を今に伝える奇狂な信徒たちが暗黒の深淵に身を潜めていることを暴露し、例えば、「槍烏賊の頭に竜の胴体、鱗のある翼を持ち、象形文字を刻んだ台座にうずくまった姿」の醜悪な太古の神々が、海底で、星辰の座が正しい位置に復帰する時を夢見ながら待っているのと同じように、この「cu sai秘密教団」(仮)の信徒である彼ら彼女らが信奉する神々もまた、地上に顕現する時を待っているのかもしれないことを公表する「意思」があることを表明したい。
「ich will//I will (われ欲す/われ意思する)」(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著「ツァラトゥストラはかく語りき」より)
この邪叫(やきょう)をせずにはいられない狂信者たちが、例えば、上記のアメリカ考古学会のセント・ルイス大会に「奇怪な宗教由来の小石像」を持ち込んだ米国ルイジアナ州ニューオーリンズ所属のジョン・レイモンド・ルグラース警部がその小石像を押収することになった逮捕劇「奇妙な集会」事件に集まって居た「揃って知能が低く、しかも頭が狂って」いて「無知蒙昧な退化人」だったが「この呪われた邪教の核心である教義に、驚くべき一貫性をもって信仰を捧げてい」た狂信者たちと同類で「人類誕生に先立って、大宇宙から若い地球の上に天降(あまくだ)った《偉大なる古き神々》」が呼びかける「神々の言葉」(もしくは「不気味な囁き声」)に共鳴し毎晩、奇怪な夢に悩まされているのかもしれないのだとするならば、もしかすると「私がこの街に来た」ことで「この街の何か」が目を覚そうとしているのかもしれない。
「思うに、神がわれわれに与えた最大の恩寵は、物の関連性に思いあたる能力を、われわれ人類の心からとり除いたことであろう、人類は無限に広がる暗黒の海に浮かぶ《無知》の孤島に生きている。いうなれば、無明の海を乗り切って、彼岸にたどりつく道を閉ざされているのだ。諸科学はそれぞれの目的に向かって努力し、その成果が人類を傷つけるケースは、少なくともこれまでのところは多くなかった。だが、いつの日か、方面を異にしたこれらの知識が総合されて、真実の恐ろしい様相が明瞭になるときがくる。そのときこそ、われわれ人類は自己のおかれた戦慄すべき位置を知り、狂気に陥るのでなければ、死を秘めた光の世界から新しく始まる闇の時代へ逃避し、かりそめの平安を希(ねが)うことにならざるをえない」のだろうか?
それとも只の「子供だましの迷信にとり憑かれ」ているだけなのだろうか?
こうして、私の「今に生きながらえている秘密社会と隠れた宗教に関する資料」をめぐる冒険が始まったのだった。
※この本文には一部、H・P・ラヴクラフト著「クトゥルフの呼び声」からの引用があります。
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