新居に引っ越して来て部屋に持ち込んだ荷物の整理や調度品の配置や引っ越しに関わる行政手続き等が終わりようやくひと息ついたこともあり、そろそろお墓の継承手続きをするために一度、婆さんの菩提寺へ行こうかということになった。この婆さんは私の父親が養子に入った婆さんなので私とは血も繋がっていなければ縁もゆかりもない婆さんだったのだが、この婆さんから生前、直接、お墓を守ってほしい。毎年墓参りに来なくてもいいから無縁仏にだけはしないで欲しいと頼まれていたし、この婆さんの家に婆さんの死後、私は私の父母と一緒に住み、父母の死後はこの住んで居た土地家屋を売却したのである程度まとまったお金も手に入ったということもあり、私の実の弟や妹などはお墓なんて継承しないでとっとと墓じまいをしろと迫って来たがその提言を無視して菩提寺の檀家名簿の書き換えをする日取りを電話で予約をした。
私の父母の介護が続いたのでここ数年間は全く墓参りに行けていなかったのでだいぶお墓も汚れているだろうと思い、お墓の墓石を洗う日とお墓の継承手続きをする日との2日に分けて菩提寺へ行くことにした。日帰りも出来たが、いちいち新居に戻るのが面倒だったのでホテルに一泊することにした。
どういう訳かこの菩提寺近辺のホテルというホテルが何処も満室でかなり割高な宿泊費を払うことになったが、どうにかホテルの予約をすることが出来、そして、菩提寺へ行く日が来た。
お墓参りは私の父親が毎年行っていた。たまに私も父親と一緒に行くこともあったが、ほとんど父親まかせだった。
婆さんのお墓はここ3~4年墓参りに行けていなかった割には比較的キレイだった。洋風タワシで軽く水洗いするだけで墓石に付着していたススのようなものはあらかた取り払うことが出来た。もっと汚れていると思っていたので少し拍子抜けしたが、良い墓石を使っていたのであまり汚れなかったのだろう。
ホテルのチェックインの時刻までものすごく時間が余ってしまったのだが、何処か行きたい所がある訳でもなく、菩提寺がある地域は「寺町(てらまち)」と呼ばれていてお寺以外何も無い地域だったのでそのままホテルへ直行し、チェックインの時刻までの間、その宿泊する予約を入れたホテルのロビーに従業員から許可を取って休ませてもらうことにした。
そんなこんなでホテルの部屋に通してもらうと早速、シャワーを浴びて汗を流し、部屋に備え付けられていたテレビの電源を入れ(特に見たい番組はなかったがBGM代わりに)、駅ビルで買ったお寿司セットをテーブルの上に広げて遅めの昼食を摂った。
明日のお墓の継承手続きまで特にすることもなかったのでソーシャルゲームの周回プレイをすることにした。このホテルはWi-Fi無料だったので私のiPadの通信制限を気にすることなくプレイすることができて快適だった。ホテルの備品は年代物ばかりだったがWi-Fiの電波は思いの外、高速だった。
ホテルの外からは時折り、くさい!、くさい!と叫ぶ若者が複数人(それぞれ別々)が居たが、クトゥルフにまつわる一群の伝承や神話の有識者もしくはダゴン秘密教団の構成員ならばそこは「イアー!、イアー!」と叫ぶところなのでは?とも思ったが、そう言えば、新居でもこれからお墓の継承手続きをする婆さんの家に住んで居た時も「くさい!、くさい!」と叫ぶ老若男女が居たな(しかも複数人。それぞれ別々)と思い返していると、ホテルの廊下が段々とにぎやかになって来た。彼等彼女等の話している会話の内容から、どうやらこのホテルの近所で大物アーティストが久しぶりにライブを敢行し、それが2daysであったために一旦、家に帰るのが面倒だからだとか東京都以外から遠征して来たからだとかいう理由でこのホテルに集結しているということが判った。何故、このホテルの宿泊料金があんなにも高くて、しかも近隣のホテルが全て軒並み満室なのかの原因が判明し、コロナ自粛明けでお金儲けがしたかったホテルの恣意的な値段設定にさもありなんと思った。随分と高額に宿泊料金が設定されている割りには廊下ではしゃぐ通行人たちは若者が多かった。いや、若者以外は大人しかったと言うべきか。流石に活動休止期間が途中にあったとはいえ30年以上活動しているアーティストなのでファンが若者ばかりということはないだろうが、逆に今でも若者が新規にファンになってライブに、しかもこんな割高なホテルに宿泊してまで駆け付ける。これはすごいことなので感心していると私が宿泊していた部屋(私の宿泊していた部屋は角部屋だった)の隣の部屋に若い男女2人組が入室して来た。部屋に入って来た時からハイテンションだったところから、彼等もまた、ライブ帰りで明日のライブのために宿泊するファンの中の2人だということが判った。ところで、この時ようやく気付いたのだが、このホテルの壁の薄さには驚いた。鉄筋コンクリートの壁ではなくて襖か石膏ボードで区切ってあるだけなのではないかと思われるくらい隣の部屋の話し声がはっきりと聞こえるのには思わず笑ってしまった。この2人がシャワーを浴びる音も聞こえたし、これは流石に建築基準法的にはどうなっているのか、よくホテル業の営業許可が下りたものだなと考えていると、お酒を飲んで気分がよくなって来たのか、この隣室の若男が奇妙な話をし始めた。
この若い男女2人組は2人でよく色々なアーティストのライブに参加していて、そんなライブデートの時に宿泊したホテルの中のひとつで奇妙な経験をしたのだという。この若男はその時は彼女を怖がらせたくなかったから言わなかったのだけれどもと前置きをしてから静かに話し始めた。
ほら、あれ、いつだったか、ネーミングライツでコロコロ名前が変わる会場あったじゃん?。そこであのアーティスト絶対、トリプルアンコールまでやるでしょ!ってことになって、ホテル予約したじゃん。あのホテル、初めて外観を見た時から気味悪かったよね。タモリの「世にも奇妙な物語」に出て来そうな、いかにも何か「いわく」がありそうで清潔感はあるんだけど何か薄暗くて陰の妖気が漂っているというか雰囲気が「ホーンテッドマンション」みたいだったホテルに泊まったことあったじゃん?。覚えてる?。そうそう、あそこあそこ。ホテルの近所に24時間営業してるコンビニもあってロケーションはバッチリだったよね。え?、そんなこと感じなかったって?。いやいやいや、「ナイトメア ビフォア クリスマス」とか「アダムス・ファミリー」とか嵐の大野くん主演の「怪物くん」に出て来るみたいな感じだったじゃん!。え?、そんなことない?。あ、そう。まあ、別にいいけど。そんで、そのホテルのロビーの中も何か、暖色系の照明だったけど、何か薄暗かったよねえ。フロントの中年男も普通な雰囲気だったけど、妙に陰気でコミュ力高そうな割りには一歩引いた感じで派手すぎず地味すぎない、何か影の薄い、何か印象に残らない人だったよねえ。そんでさあ、荷物を預けてライブ会場に行こうと思って「荷物を部屋に運んでおいてください」って言ったら、すごい嫌な顔してすごい部屋の中に入るの嫌がったじゃん?。あの時は気付かなかったけど、あのフロントマン、本当に心の底からあの部屋に入るのを嫌がってたんだねえ。今だから分かるけど、あのフロントマン、あの部屋がどういう部屋なのか知ってたんだねえ。ほら、ホテルって、縁起を担いでルームナンバーに数字の4は使わないとかあるじゃん?。日本全国色々なホテルに泊まってたからひとつくらい「そういう部屋」に泊まる日が来ると思ってたけど、本当に「そういう部屋」って実在するんだねえ。え?、もったいぶらないで要点だけ早く言えって?。いいじゃん。夜はまだ長いんだし、それとも、もうしたくなっちゃった?(笑)。せっかくここまで話したんだから最後まで聞いてよ。え?、やだ?。えー、じゃあ、要点だけ言うよ。待って、待って。聞いて、聞いて。お願いします。聞いてください。話したい話したい。この話を聞いた後、何て思ったか感想聞きたい。え?、いいじゃん。そんな話聞きたく無い?。えー、ここまで話してここで終わりはないでしょ。寸止め好き過ぎるだろ!(笑)。え?、そういうこと言うから聞きたくなくなるって?。言わない言わない。もう言わないから聞いてください。で、夜、寝たじゃん?。違う違う。そういう意味じゃないって。ツインベッドルームで俺が部屋の入口側のベッドに寝たじゃん?。で、夜中に、ふと、なんとは無しに目が覚めたんだよね。そんで、ふと、何となく部屋の入口のドアを見たんだよね。部屋のドアの位置は俺の足の向こう側だったんだけどさ。そのドアがある所に男がひとり、立ってたんだよね。えっ?、と思ってよくよく見るとドアが全開で廊下に男が1人立ってるんだよ。体付きから男だって判ったけど、肉体労働者風の濃紺色で膝くらいの長さの防寒コートにスキーウェアみたいな厚みのある防寒パンツを履いて靴は真っ黒なブーツっていう格好の男が白いガーゼのマスクで口と鼻を覆ってて、何か怒ってる感じで、じーっと俺の方を見てる訳。何だこいつ。って思って、俺も、じーっとその男のことを見返してたんだけど、その男が立っている廊下が何か変なのに気付いたんだよね。その廊下の天井に照明が無くって真っ暗で、何故か天井が見えないくらい真っ暗で、逆に、廊下の床の、その立ってる男の両側を夜の飛行場の滑走路みたいに男の後ろに向かって真っっっっ直ぐに小さい炎が点々と等間隔で灯ってる訳よ。あれ?、そんなにここの廊下って長い一直線だったかな?って疑問に思ったらさ、急に、その立ってた男が、すぅって薄くなって行って、男が消えて行くのに合わせて、今度はドアが薄ぼんやりとした感じから段々はっきりとしたドアになって行って、最終的に男も男が立ってた廊下も見えなくなって完全にドアになったんだよね。でも、その立ってた男のガーゼの白いマスクだけはドアの上に残っていて、ああ、寝ぼけてドアスコープの目隠しが人の顔に見えちゃったのかな?と思って寝直したんだよね。そんで、朝になって足先にあるドアに目をやったらさあ、ドアにドアスコープの目隠しなんて無かったんだよ。
バフゥ!
私が私も驚くほどのものすごく大きなオナラの音を出したら、隣の彼等の部屋にも聞こえたらしく、隣の部屋の若女が「くさい!、くさい!。オナラくさい!(怒)」と叫んだかと思うと、こんな所に泊まって居られない。帰る!と言い出して光の速さで荷物をまとめると足早に部屋を出て行ってしまった。それを見た若男の方はというと、かなり慌てた様子で急いで荷物をまとめ、「待ってよお〜」と情けない声を出しながら部屋を出て行った若女の後を追いかけて部屋を出て行ってしまった。なんか、申し訳ない。出もの腫れもの所かまわずというが、彼渾身のピロートークを台無しにしてしまったようだ。
結局、この若い男女2人組は部屋に戻って来なかったので彼女がどんな感想を彼に伝えたのか分からずじまいだったが、「奇妙な体験が出来る」ホテルというものは欧米では大人気コンテンツで宿泊の予約がなかなか取れないホテルとして有名になるものだが、本邦ではあまり人気ホテルにはならないらしい。座敷童が出る部屋に宿泊して座敷童に出会えると大金持ちになれると言って有名になった老舗旅館が本邦には存在するが、得体の知れない未知の何かと出会えるホテルとして宣伝してもストーリーが広がらないから訴求力はあまりないのかもしれない。実は宇宙の深淵と繋がっていてその男の立っていた廊下を進んで行くと、深き眠りの門の彼方、厄災に満ちた魔界都市や隠された極寒の荒野や蕃神の孤峰、未知の絶嶺。70、700の夢の階段を降りて至ると言われる幻夢郷にたどり着く、もしくは米国の寂しいヴァーモント州の田舎に住んで居たエイクリーが見に行くと言っていたユッグゴトフ(菌類庭園と無窓都市の暗黒世界)や青光りのするク・ヌ・ヤン、赤光りのするヨトフや光の無い暗礁のヌ・カイといった世界に人間の体のまま行くことが出来るというのならば、もしかしたらインバウンド需要で海外の好事家やユーチューバーたちが喜んで宿泊しに来てくれるかもしれない。時空の障壁を破壊して地球の外の広大な宇宙、無限なるものと究極なるものとの暗黒にして底知れぬ秘密のそばに近寄ること、人がその生命や魂や正気を賭けて目指すドリームランズというものには、案外、こういった経路で行き着くものなのかもしれない。
ボフゥ
今日はオナラが止まらないな。いつもなら下痢と便秘とを繰り返す私が臭いけれどもオナラが頻繁に出るだけで快便が続いているのだから、ここは健康体になって来ているのだと思うことにして、部屋の照明を落として眠るために両目をゆっくりと閉じた。
目覚ましは特にセットしていなかったが自然と目が覚めた。チェックアウトの時刻は10時なのでいつもより遅めの時刻に目が覚めてもかまわないのだが、いつもならまだ時間に余裕があったら二度寝をしているのだがその気にならなかったので起き上がると、買い置きしてあったバナナを1本食べ、昨夜は夢さえ見ないでぐっすり眠ったなあとぼんやりと昨日から点けっぱなしのテレビをなんとはなしに眺めていると、そろそろホテルをチェックアウトする時刻になった。のろのろと身支度をしながら10時にホテルを出ても菩提寺の檀家名義人の変更手続きをする予約時刻は午後1時なのでそれまでの間、何処で何をして時間を潰そうかと考えながら体を動かしているうちに出発の準備が整った。
「実際に目に見える恐ろしいものは、結局なに1つ見なかったのだということを、心によく銘記しておいていただきたい。」(H・P・ラヴクラフト「闇に囁くもの」より)
という気分に浸りながら、まあ、私はペーパードライバーなので車の運転は出来ないのだけれどもとひとりごちた。
空は今日も快晴で、日中の気温も高くなり体感も暑くなりそうだった。
「闇に囁くもの」も「狂気と理性の間。夢と現の彼方。薔薇の眠りを越え、古古しきものたちの玉座に導かれて顕現したパンケーキが大好きな水着の少女」も見ることもなさそうな、そんな天気だった。
いい加減、チェックアウトの時刻も迫っていたのでショルダーバッグを肩に掛け手荷物を持ってホテルの部屋のドアを開けると、やはりホテルの廊下が続いていた。
私はホテルの部屋からホテルの廊下へと第一歩を踏み出した。
コメント