ふと目が覚めると部屋の外はすっかり暗くなっていた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。と、突然、何かが爆発したような轟音が部屋の外から聞こえて来た。すわ事件か?と思い玄関のドアを開けると、外は雪国だった。暗い空一面に降り落ちる大粒の牡丹雪が街灯に照らされて深海に漂う浮遊物のようだった。東京23区内に雪が降り、地面に積もるのはとても珍しいのでしばらく見入ってしまった。そして、この轟音。東北地方や日本海側ではよくあることなのだそうだが、雪が降っているのに雷が鳴っているのだという。東京23区内におよそ半世紀ほど住んでいるが、雪と雷が同時発生するのは初めて経験した。有識者たちの解説によると、雪雲が夏の積乱雲のように発達したから雪が降っているのに雷が鳴っているのだということだった。
街灯に照らされる空一面の大粒の白い雪を見ていると、昔聞いた「白い女」のことを思い出した。
私は三十代の一時期、土日だけ警備員のアルバイトをしていた。父親の経営する会社で働いていたが、父親に「遊ぶ金が欲しかったら外に働きに出て自分で稼いで来い」と言われ、父親の経営する会社と警備員とのダブルワークをしていた。
警備員として雑踏警備や施設警備など色々こなしたが、主に商業施設の交通誘導をすることが多かった。交通誘導と一言で表しても、車の誘導だけではなく、施設の外周部の巡回や立哨、トラブルが起きた時にお客様や出入り業者さんたちとの渉外役をつとめたりもした。雪が降り積もるような日は降り続ける雪の中を勤務時間中ずっとスコップで雪かきをしたこともあった。もちろんルーチン通り休憩をはさみながらだが。
これから話す話は、そんな警備員時代に同僚の警備員(もちろんお互いに待遇はアルバイト警備員だ)から聞いた話だ。
警備員とは面白い職業で、ほとんどの警備員はアルバイトで、色々な前歴の方達が集まる異業種懇親会の様相を呈していた。
その話を私にしてくれた方は前歴が某有名アパレルブランドのエリアマネージャー統括マネージャー統括責任者という早口言葉みたいな肩書きの経験者だった。別の隊員(警備員のことを隊員と呼び、各々の現場を束ねる警備員長のことを隊長と私が働いていた警備会社では呼んでいた)から聞いた話ではセクハラで左遷(本人はねぎらいのつもりで若女従業員の肩をポンポンとしただけだと主張したそうだが、今でも何故、左遷されたのか解らないのだという)されて早口言葉みたいな肩書きから東京周辺部の小さな街の小さな支店の支店長に降格され、その後、そのアパレルブランドが日本から撤退することになり、日本法人の従業員がいきなり全員解雇されてあっけなく失業。それから色々あって今は失業保険を受給しながらもぐりのアルバイト警備員をして小銭を稼ぎながら就職活動中なのだという。この時代はまだインボイスが無かったのでこういう働き方が可能だった。インボイス、マイナンバー、従業員はアルバイトでも社会保険に加入することの義務化の三大改悪の結果、2024年現在のアルバイト警備員は会社に無断でダブルワークだったり、生活保護を受給しながら働いたりすることが出来なくなったので、果たして警備会社各位は警備計画上必要な人員を確保出来ているのかどうか少し気になるところだが、今ではもう彼等とは付き合いがないので知るすべもない。
閑話休題。
その日は今日と同じような「ウォークイン冷蔵庫」にでも入っているかのような顔の皮膚が寒さでつっぱり、足のつま先が寒さで痛い。そんな夜だったという。
電車からプラットフォームに降りてしばらくしてから降りる駅を間違えていたことに気が付いたが、もう電車はホームを出て行ってしまっていたので後の祭りだった。たまにこの駅で下車して場外馬券売り場で馬券を買っていたので、いつものくせでオートマチックに下車してしまった。今、乗っていた電車が終電だったのでもう歩いて帰るしかない。失敗した。やはり飲み会は一次会で帰るべきだった。彼はセクハラで左遷されたので、彼が店長をしている店舗には女の従業員が1人も居なかった。だが、今日は違った。年末年始のクリスマスセール、歳末セール、新春福袋セールからの正月セールと小売業者にとってのスーパーかき入れ時だったので彼の店舗にも応援が何人か来た。その中には若女アルバイトも居て、その子が年末年始セールお疲れ様会(という名目のただの飲み会。会社の経費で飲み食い出来るので、その当時はみんな楽しみにしていたイベントだった)に参加するというので、いつもなら2、3杯焼酎を飲みながら従業員一人一人にねぎらいの言葉を一言二言言ってお金だけ置いてすぐ帰っていたのだが、ワンチャンあるかも(ニヤニヤ)とよこしまな期待にポークビッツを熱くし二次会まで参加したが、結局何も無かった。彼女は明日もシフトに入っているというのにこれから終電で帰らない従業員たち(もちろん彼等も明日のシフトに入っている)と一緒に朝までカラオケをするのだという。流石にそこまでは付き合えないと彼は撤退を決め、急いで終電に飛び乗ったのだが、少し酔っていたのか降りる駅を間違えてしまったという次第だった。
降りた駅はK町。江戸時代はこの街が湾岸地域で、古典落語で有名な「置いてけ堀」があったと言われている街だ。彼は休日になるとよくこの街の場外馬券売り場で馬券を買っていた。狙いは万馬券。株に投資するよりもノーリスクハイリターンだよと言っていたが彼はまだ一度も当てたことはないと言っていた。
折角来たのだから真夜中の場外馬券売り場でも見てやろうかと思い、バス停側の改札から駅の外に出た。K町の夜は静かで人っ子一人歩いていなかった。路上を行き交う車もなく、動くものと言ったら信号機だけが無音で点滅を繰り返しているのみだった。
場外馬券売り場へ行くには花街を通って行くのが近道だった。朝になるとこの信号を渡ってゾンビの群れのようなよれよれの服を着た老人たちが花街を通って場外馬券売り場へ行き、勝てば帰りに花街の風俗で遊び、負ければ花街の居酒屋で酒を飲む。そういう生態系の街だった。現在では都市再開発が行われ、花街の生態系は健在だが、駅を挟んだ反対側は高層マンションや大型ショッピングモールが立ち並び、「ハイクラスラグジュアリーエリア」として不動産屋が定期的に開催している「住みやすい街ランキング」の上位常連エリアに数えられている。
そんな再開発前の横断歩道を渡り、花街の入り口に来ると視界の隅に手招きをする女の姿が見えた。なんとなくその女の居る方(彼から見て右側)に視線を移すと、街灯に照らされた下に黒髪ロングストレートで半袖の白いワンピースを着た白い肌の女が右腕を前に出し「おいでおいで」と手のひらを下にして手首の動きだけでゆっくりと手招きをしていた。少し距離があったので顔の表情までは読み取れなかったが、目がある位置には真っ黒い穴のような円形の陰しか見えなかった。
あまりにもはっきりと見えていたので、その時は「変な女」が居るなくらいにしか思わず、特に気にも留めないで花街の大門をくぐり抜けて花街の中へ入って行った。夜も遅かったので花街の中通りで営業中の店は皆無で、客の老男が巨漢の黒服に店をつまみ出されて店の外で口論になっているというお馴染みの風景などを見ることもなく花街を通り抜け、ライトアップされていない場外馬券売り場を見上げた頃にはすっかり体温を外気に奪われ、身体をぶるっと振るわせると足早に家路へと向かった。
帰宅後、誰も居ない部屋で一晩寝て、朝起きて出勤の支度をしている時に、あれ?、妙だな。と思ったという。
何故、あんな冬の真夜中に白い半袖のワンピースを着た女(年齢不詳)が立って手招きをしていたのか。あんな寒空の下、立ちんぼもよくやるなと見たその時は思っていたが、季節は冬なのに、何故、あんな薄着で花街の入り口からあんなに離れた所に立って居たのか。
人ならざるもの。
その考えが頭に浮かぶと急に部屋の中の気温が下がったような気がした。あまりにもはっきりと「見えて」しまっていたので「そういうもの」だと見た時は気付かなかった。ドラマや映画のようなおどろおどろした雰囲気は一切なく、恐怖も感じなかったし、間違いなく確かにそこに「白い女」は存在していた。あまりにも普通に「見えて」しまっていたので逆に何の違和感も感じなかった。
この話には後日談があって、彼は自分のお店の店員や客や飲み屋でこの「白い女」を見たという話をしまくったので、その話がK町の花街にまで伝わり、花街の客や従業員の間でも一時期話題となった。
確かに昔、その場所によく立っていた立ちんぼが居たという人や、本当に「白い女」が見えるのか確認しようと一晩中張り込みをする人も現れた。
花街の有識者たちが霊能者を呼んで霊視をさせてみたところ、「見える。今も居る」という霊能者や「昔は居たようだが今は居ない」もしくは「居ない。見えない」という霊能者など様々で、結局、「白い女」を見たという一般人は彼以外居なかったので、それ以上の盛り上がりを見せることもなく飽きられ、忘れられて行った。
この「白い女」は何だったのか、結局解らずじまいだった。霊というものが「死んだ人間の魂」なのかどうかは今のところ解らないが、確かに「霊」と呼ばれる存在は「実在」しているんだと思うよ。と彼は言っていた。今後、更に科学が発達すればこの「白い女」のように「見えてしまうもの」の正体も解明される日が来るのかもしれない。
あぁ、寒い。
私は玄関のドアを閉めて部屋に戻った。
部屋の外では雷音はまだ続いていた。
遠くの街では落雷し、停電中だというニュースが飛び込んで来た。この降りしきる雪の中、電気の復旧を待つ人も大変だし、保守作業員も緊急出動で大変だなと思った。
目が冴えて来たので今夜は眠れそうにない。
PCモニターでYouTubeで報道されるウェザーニュースを少し見た後、表示を切り替え、Amazonプライム・ビデオにアクセスした。
コメント