私はスラム街で生まれ育った。どれくらいのスラム街かというと、小学校の創立記念日だったので学校が休みだった日(世間的には平日)の午前中に道を歩いていただけで自転車で巡回中の警察官に呼び止められて職務質問をされるくらいのスラム街だった。その時に学校が創立記念日だから休みなのだといくら説明しても信じてもらえず、その警察官は無線で所轄の警察署まで連絡をしてその警察署からわざわざ学校に電話をさせて本当に学校が休みなのかどうかを確認までした。そして、本当に学校が休みなのだと分かるとその警察官は不愉快そうにイラつき始め、こんな時間に街中を歩いているんじゃない!と小学生の私を叱りつけて自転車で足早に去って行った。また、ある日の夜。時間は午後7時頃。隣町の塾から自転車で我が街へ帰る途中、街の入り口に当たる橋の手前で待ち伏せをしていた警察官2人組が走行中の私の前に飛び出して来て大の字になって通せんぼをし、こんな時間に何処に行ってたんだ!と怒鳴り付け、問答無用で職務質問が始まったりと、そういうことが日常的にある街だった。

自転車はよく盗まれた。父親が初めて買ってくれた自転車はすぐに盗まれ、何週間か経った頃に車体を真っ二つにへし折られた状態で家の前に放置された。キレイな自転車ほどよく盗まれるのだと知り、それ以降、自転車を買ったらわざと手入れをしないで車体を錆つかせるようにした。だが、錆びた自転車に乗っていると今度は盗難車だと警察官に思われて昼夜関係なく、職務質問をされるようになったが盗難されるよりはマシだと思い、職務質問の対処法だけはどんどん上手くなっていった。

私が乗っていた自転車はノーマルな普通の自転車だったが街の中学生たちはみんな自転車のハンドルをアルファベットのMの字にしたりVの字にしたりハーレイダビッドソンのように長くしたりしていた。小学生の私はそれらの自転車を貸してもらって運転しようと試みたが、どれも全く運転出来なかった。それらの自転車の持ち主の中の1人(もちろん中学生だ)にどうしてそんな運転しづらい自転車に乗っているのかと尋ねたことがあったが、その中学生いわく、運転しづらい自転車を運転出来るからカッコイイんじゃないか!とのことだった。その頃の私には理解出来なかったがそれは謂わゆる「矜持」というものだったのだろう。まあ、今でも自転車は運転しやすい方がいいとは思うのだが、「運転しづらい自転車」を乗りこなすことが「カッコイイ」と見做されている、そんな街だった。

小学1年生になって最初に驚いたことは、この街には朝から酒を路上で飲んでいる「酔っ払い」の老人が結構たくさん居るということだった。私が住んで居た団地(団地としては比較的新しい団地だった)から小学校までの通学路の途中にある、開店前の酒屋のシャッターの前で老人たち(老女も居た)が平日の朝から毎日酒盛りをしていて通学途中の私たち(本邦の小学生は近所の小学生同士で集まって集団登校をしていた。親の付き添いはなかった)に向かって見てんじゃねえよ!等と罵声を浴びせて来る日もあったが、それはこの街では「ありふれたこと」だったので特にこのような「酔っ払い」たちに注意をする人もいなかったし、警察官も見て見ぬふりをしていた。随分と大人になってから知ったのだが、この朝から酒盛りをしていた老人たちは防犯のために通学路を登校する小学生たちを見守りたくてわざわざ通学路の途中で朝だけ酒盛りをしていたのだという。酒を飲んで居たのは照れ隠しだったそうだが、小学生の頃の私には朝から気分がダウンする「嫌なもの」のひとつだった。

嫌なものと言えば、夜な夜な不定期的に街の道路をのろのろ運転で通り過ぎる暴走族も嫌なもののひとつだった。その頃の本邦の暴走族は全て、地這いのやくざの許可がないと公道を走れず、走行ルートも事前にやくざに提出していて、やくざに完全に管理されていた。何故、やくざが暴走族を管理しているのかというと、暴走族のメンバーで「優秀な人」はやくざの構成員にスカウトしたり、やくざの親分の家の周りを夜な夜な暴走して親分の安眠を妨害させないようにするため等が主な理由だった。令和の時代を生きる暴走族がどういうルールで公道を走っているのかは預かり知るところではないが、昭和の暴走族は「行く先も解らぬまま暗い夜の帳りの中へ」「自由になれた気がした」若者の「The Night」ではなかった。余談だが、今、私が住んでいるアパートに引っ越すことに決めた決め手のひとつに、歩いて5分の所に大きな警察署があるから夜な夜な暴走族が周回して来ないというものがある。子供の頃に夜な夜な暴走族に街を周回されていい迷惑を被って来ただけに、夜が静かで治安も良い街は本当に素晴らしい。

閑話休題。

前置きが長くなってしまったが、そろそろ「耳」の話をしよう。

あれはとても暑かった夏の終わり、私がまだ家族とそのスラム街にある団地で暮らしていた日のことだった。

その日、母親からまた孤独死した老男の話を聞いた。その老男は昔から団地に住んで居た「古参」のひとりで親兄弟、家族と一緒に暮らしていなかったというだけで近所付き合いはしているし、道ですれ違えばあいさつくらいはする仲の知り合いは何人もいる、ごく普通の一人暮らしの老男だった。その老男のことを知っている人たちが最近彼を見ないねえ等と話していたら実は団地の自分の部屋で死んで居たということで街はその話題で持ちきりとなった。

先ず、何故、部屋の中で死んでいることに気付いたのかというと、夏が終わり、クーラーで冷房を掛ける電気代がもったいないのでその老男の隣の部屋の人が窓を開けたところ、もの凄く臭い。何の臭いか分からないが、兎に角、臭い。その尋常ならざる臭いが隣の部屋から漂って来るということを突き止め、老男の部屋の玄関のドアをドンドンとかなり強めに叩いても全く何も反応がない。もしやと思い、行政に連絡をして警察官立ち会いのもと、その老男の部屋のドアを開けたら、あまりにも臭いがキツ過ぎて中には入れなかったという。伝聞の伝聞なので、詳しいことは分からないが、その老男は締め切った部屋の中でクーラーも掛けずに布団の中で寝たまま死んで居たらしい。ただ、その老男の体はドロドロに溶けていて、そのチョコレートのような茶色い液体が布団に染み込み、その下の畳にまで染み込んでいたという。どうやって検死をしたのかは分からないが事件性はないと判断され、よくある「団地で孤独死した老人」として処理された。と、ここまでは「よくある話」なのだが、ひとつだけ妙だなと人目を引いたものがあった。それは、この老男の耳だけは溶けずに残っていたのだという。しかも両耳とも。体が溶けてしまったのは夏の間、締め切った部屋の中で布団の中にずっと居たからだろうということは容易に想像が付く。検死官が言うには死後1ヵ月とのことだったが、何故、耳だけは溶けなかったのだろう。もちろん頭部もドロドロに溶けていて人相も分からないほどであったというのに、耳だけが頭部からちぎれ落ちていて死体が発見されるまで「耳」は「耳」の形のままだったという。

話としてはこれでおしまいなのだが、その後もこの部屋には新しい住人が住み、何事もなかったかのように時は過ぎ、今では東京オリンピック・パラリンピックを開催することの一環としてスラム街浄化作戦が行われ、我が故郷であるこの街の団地群も次々と解体され、高級営団集合団地へと建て替えが進んでいる。本来ならもうとっくに工事は全て完了しているはずだったのだが、パンデミック自粛や少子高齢化による慢性的な人手不足に加わり資材費の高騰、パンデミック対策として行われた鎖国政策による外国人労働者が帰国したきり帰って来ないという安い労働力の担い手の激減等が重なり、2024年現在も絶賛解体&建設中だという。解体中の団地の部屋や敷地の下から奇妙な図形やラテン語やギリシャ語等で書かれた古い書物等が出て来たという話は寡聞にして知り得ていない。

昭和は遠くなりにけり。

星空を見つめながら。

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